LTESとは?

尾 高 煌 之 助


本プロジェクトの名称に登場するLTESとはいったい何か?以下では、その簡単な解説を試みよう。 概 要  通称「長期経済統計(LTES、 Long-term Economic Statistics)」とは、日本の近代経済成長(Modern Economic Growth)を定量的・解析的に叙述する目的で、体系的に作成された歴史統計のことである。

「近代経済成長」とは、クズネッツ(Simon Kuznets)の概念で、

を特徴とする経済発展過程をいう。工業化開始以来の経済成長を指すと思ってよい(Modern Economic Growth, Yale University Press, 1966[塩野谷祐一訳『近代経済成長』上下、東洋経済新報社、1968年])。

「体系的」というのは、経済諸統計を国民的規模で(マクロ的に)統合するために国民経済計算(national income accounting;social accountingともいう)の概念枠組みを利用するという意味である。

さて、固有の意味におけるLTESは、明治期から戦間期(1868年01940年)を網羅する日本の経済統計の集成に付けられた名称である。俗称「大川推計」ともいう。この統計は、第2次大戦後、米国のロックフェラー財団(Rockefeller Foundation)の支援を得て、当時一橋大学経済研究所員だった(故)大川一司・篠原三代平・梅村又次の三氏をリーダーとして、一橋大学内外の多数の研究者の協力を得て作成された。


成 果

LTES推計の成果は、『長期経済統計』全14巻として、1967年から1989年にわたり、東洋経済新報社から刊行された(本文は日本語のみであるが、付属統計表にはすべて英文の添え書きがつけられている)。いまそのタイトルと編著者とを記せば、以下の通りである。

これらのうち、国民所得とその要素との推計に直接かかわるのは、1、4、6、7 - 10、14の諸巻で、その他は関連の重要統計を扱っている。ただし、重要な注意事項として、これらの諸系列は、すべて日本本土(Japan proper)のみを対象としていることを記しておかねばならない。

以上14巻に対応する英文報告書は、Kazushi Ohkawa and Miyohei Shinohara, eds., Patterns of Japanese Economic Development, New Haven: Yale University Press, 1979一巻である。本書は、東洋経済新報社版報告書の著者たちがその成果を英語圏の読者のため新たに書き下ろしたたもので、推計要約と統計集とから成る。ただし、ここに盛られた統計数値は、東洋経済新報社版と完全に同じではないところがある。

これらLTESの統計数値は、のちに日本経済統計情報センター(旧称日本経済統計文献センター)の手で電算機可読型データファイルに編集された(そのための利用者手引として、秋山凉子『LTESデータベース解説』一橋大学経済研究所日本経済統計文献センター、1989年および松田芳郎・安田聖・有田富美子(編)『LTESデータベース検索システム解説』同上センター、1991年がある)。

以上のほかに、上記の諸書と関連が深い長期推計として、藤野正三郎と五十嵐副夫とによる景気動向指数(『景気指数:1888-1940年』一橋大学経済研究所日本経済統計文献センター、1973年)ならびに藤野正三郎と寺西重郎とによるマネーフロー表がある。ただし後者は、現在のところまだ最終結果が公表されるに至っておらず、その全貌が図によって窺えるにとどまる(藤野正三郎『所得理論』改訂版、東洋経済新報社、1984年、244-45頁)。

ところで、以上の推計結果がほぼまとまった段階で、その姉妹編として、日本旧植民地のマクロ経済統計シリーズを作成するプロジェクトが実施されたことを記しておかなくてはならない。この共同研究は、再び一橋大学経済研究所所員を中心に遂行され、いったん中間報告書(篠原三代平・石川滋(編)『台湾の経済成長』アジア経済研究所、1972年)にまとめられたうえで、梅村又次・溝口敏行(編著)『旧日本植民地経済統計』(東洋経済新報社、1988年)として公刊された。


LTES前史

LTESの直接の先行業績は、山田雄三『日本国民所得推計資料』(東洋経済新報社、1951年)である。LTESは、この著書に刺激を受け、その精神を引き継ぐとともにそのカバレッジを大幅に拡大して実施されたものといっていい。

LTESの推計作業は、主に算盤を利用し、手書きの集計表を丹念に積み重ねながら進められた。もちろん、時とともに卓上型の手動計算機(タイガー)や電動計算機(モンロー、フリーデン、その他)が用いられ、のちにはテープ入力式小型電算機(バーローズ)や電子式卓上電算機(ソバックス、その他)が使用された部分もある。推計・計算などは、一橋大学経済研究所内に共同作業室を設けて実施されたが、その他にも資料検索・収集、データ入力ならびに校正等々のため、研究所統計係(現在の統計情報サービス係ならびに電算機室)、助手・事務職員はもちろん、臨時職員などを含む多大の労力が費やされた。

きわめて労働集約的なこれら推計作業の結果は、まずワークシートとしてまとめられ、謄写版による仮印刷に付されたうえで改めて検討され、検討の済んだ部分から逐次統合、整理されて公開された。(これらのワークシートは、国民所得研究会資料として、日本経済統計情報センターに所蔵されている。)

LTESの第一次成果は、大川一司ほか『日本経済の成長率』岩波書店、1956年、同英文版Kazushi Ohkawa, in association with Miyohei Shinohara, Mataji Umemura, Masakichi Ito and Tsutomu Noda, The Growth Rate of the Japanese Economy, Tokyo: Kinokuniya Bookstore, 1957として結実した。LTESが完結したいま、これらの二著はもちろん、前述の山田著がひもとかれることはほとんどなくまたその必要もないが、山田推計に包含されている諸統計のなかでLTESの中に採録されていない例外的な系列の例として法人留保がある。

LTESの推計成果を積極的にとりいれて執筆された近代日本経済史の通史には、中村隆英氏の諸著(『戦前期日本の経済成長』岩波書店、1971年、『日本経済』第2版、東京大学出版会、1980年)をはじめ、藤野正三郎『日本の景気循環』勁草書房、1965年、同『所得理論』東洋経済新報社、第2版、1984年、南亮進『日本の経済発展』東洋経済新報社、1981年、西川俊作『日本経済の成長史』東洋経済新報社、1985年などがあげられる。

また、LTESと直接の関係はないが、戦前から国民所得推計を試みた先駆的業績として土方成美のものがある。さらに、歴史統計を集大成した類似の統計刊行物として注目すべきもののなかには、

等々がある。


LTESの推計的特質

LTESは、本格的に国民経済計算に準拠して作られた日本のマクロ経済史統計として初めてのものである。その推計にあたっては、比較的豊富な日本の統計資料が丹念に掘り起こされ、その作成過程や精度が詳細に吟味された。

日本の経済統計資料は、国際的にみても比較的豊富な部類に属する。これは明治以降、統計資料の整備に心を砕いた政府内外の専門家とその協力者たちの努力のおかげであると同時に、それらが行政上ないしは政治的な必要に合致したからに違いない。統計資料の渕源や整理様式が江戸時代に遡るものも当然ある。(この辺の事情は、たとえば相原茂・鮫島龍行(編)『統計日本経済』(経済学全集28、筑摩書房、1971年)、松田芳郎『データの理論』(岩波書店、1978年などが詳しい)。

これらの統計資料を初めて活用したのは、(主としてマルクス主義的方法論にもとづく)経済史家たちだった。特筆に値するのは、古くは山田盛太郎『日本資本主義分析』(岩波書店、1932年、岩波文庫版 1977年)や、やや新しくは古島敏雄の諸業績(たとえば『産業史 III』第2版、山川出版社、1977年)などである。LTESは、これらの諸業績が発掘した諸資料を改めて異なる視点から利用し、また統合をはかった。もちろん、LTES推計の努力の副産物として、それ以前に利用されたことのない資料が発掘された場合(人文地理学者黒崎氏の示唆によって利用された徴発物件の統計など)もあった。


LTESの欠陥

日本のLTESには、次の三つの目だった欠陥がある。

(1)長期間にわたって、多数の著者によって担当されたため、LTES各巻の間に概念の不統一が生じた箇所があるのはやむを得ない。同一の概念でも、推計方法によって異なった結果が得られたところもある。たとえば、投資系列は、生産統計から求めたものと、資本ストック系列から導出されたものとでは必ずしも一致しない。

(2)さらに、系列相互間の整合性チェックや、あり得べき矛盾の検討などは実施されていない箇所の方が多い。たとえば、産業相互間の投入と産出の関係は、これを資料的に吟味する手だてがないため、まだ十分実施されていない。(もっとも、LTESと投入産出表との関係を論じた先駆者的業績として、H. Chenery,Shuntaro Shishido, and Tsunehiko Watanabe, "The Patterns of Japanese Growth, 1914-1954," Econometrica, Jan. 1962, pp.98-139 や、新谷正彦『戦前期産業連関構造の変化に関する数量的研究』西南学院大学学術研究所、1968年がある。)

(3)推計の網羅性が不十分な箇所がある。全巻にわたって年次データのみが対象になっているのはやむを得ないが、その他にも、たとえば(既述のように)在庫統計や法人留保統計が含まれていない。また、(梅村教授の意見によれば)農作物のうち雑穀の生産統計は著しく過小だろうし、エネルギー産業の生産が十分捕捉できていないなどの不満もある。一層大きな欠陥として、商業・サービス産業の生産量には不明な点が多いが、この最後の点に関しては残念ながら改善の余地は少ない。 なお、LTESの全成果を展望した短文に、西川俊作「「長期経済統計」の計量経済学」『季刊理論経済学』1976年8月号、126-34頁などがある。


LTESの課題

最後に、日本の長期経済統計の課題としては、以下の2点をあげることができよう。

(1)第2次大戦前・大戦中・大戦後を継続する系列に仕立てること。このためには、とりわけ大戦中の諸系列を推計・加工する必要がある。(その準備作業には、中村隆英、原朗、溝口敏行などの諸教授によってすでに試みられたものがある。)

(2)明治以後と維新以前との両時期が比較可能な系列を作成すること。この課題を果たすのはきわめて難しい。江戸時代は、統計作成の原理が異なっていたからである。けれども、限られた諸系列、たとえば一定の地域の人口や出生率、卸売物価、ある種の賃金、地域的・ミクロ的な特産物の生産高などについては、継続した観察が可能である。それらを根気よく積み上げれば、江戸から明治への「移行期」を観察するための経済統計がある程度はまとめられよう。